まったりAI勉強記

AI(人工知能)について、特にゆかりがあるわけでもない社会人が、まったりとAIについて勉強していく勉強日記です。

AIという言葉を作った人物「ジョン・マッカーシー」

どうも、カタミチです。

ジョン・マッカーシー。1956年にダートマス会議でAI(Artificial Intelligence)という言葉を初めて使った人物です。今日は、彼について少し調べてみたので、ざっくりと書いてみました。肩の力を抜いて見てもらえればと思います。

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画像出典:https://www.wired.com/2011/10/john-mccarthy-father-of-ai-and-lisp-dies-at-84/

生い立ち

マッカーシーは、1927年にアメリカのボストンで生まれます。父はアイルランドからの移民、母はリトアニアユダヤ人です。1927年と言えば、1929年から始まる世界恐慌の直前ですね。

1920年代のアメリカは、空前の好景気に湧いて狂乱の時代とも言われましたが、それが一転して大不況に陥ったのが1930年代です。マッカーシーの幼少期は世界恐慌の只中にあり、住居を転々とすることになります。

その後、父が労働組合の職に就き、ロサンゼルスに定住します。両親は熱心な共産主義者だったようで、マッカーシーもその影響でアメリ共産党に入党していた時期もあるようです。当時のアメリカでは、多くの知識人が共産主義に傾倒した時代だったので、当時の空気感的の中ではありそうな話…という感じですかね。ちなみに、この影響が強いと思うのですが、マッカーシーは生涯無神論者だったようです。(共産主義と宗教は水と油)

マッカーシーは、幼い頃に読んだ「One Hundred Thousand Whys」という科学啓蒙本から科学に興味を持ち始めます。この本、調べてみても本の内容は見つけられませんでした。どうやら日本語の翻訳本は無いみたいなのでそれが原因ですかね。作者はソビエト連邦(現在のウクライナ)の人で児童向けノンフィクションを書いていたようです。マッカーシーがこの本に出会えたのは、両親が熱心な共産主義者だったから…という面も大きそうですね。しかし、ここでウクライナが出てくるとは思ってもみませんでした。マッカーシーに大きな影響を与えた本を生み出した国だったんですね。

さて、マッカーシーは非常に頭が良かったようで、ロサンゼルスの高校を2年早く卒業します。まぁこのあたり、当時どのくらいすごいことだったのか?というのは、飛び級的な考え方が無い一般的な日本人として育った私にはよく分かりませんが…。

しかし、数学がめちゃくちゃ得意だったことは間違いなさそうです。10代のころ、近所のカリフォルニア工科大学で使っていた教科書を入手して、独学で大学レベルの数学を学んでいたようです。あー、変態ですね(褒め言葉)。

大学時代

17歳頃カリフォルニア工科大学に入学、数学に関しては2年間を飛び級で進級したようです。ちなみに、この前後で第二次世界大戦が起こっているはずなのですが、これに関する彼のエピソードは特に見つけられませんでした。

で、大学に入ってそのまま卒業した…と思いきや、体育の授業に出席しなかったことで大学を追い出されます。…いや、出ようよ、体育の授業。ひとつのことに入れ込んでしまうと他のことに目がいかなくなる性格だったのかもしれませんね。

しかし、面白いのはその後で、マッカーシーアメリカ陸軍で兵役を積んで、その実績を引っさげて再入学を認めてもらい、21歳頃に数学の学士号を得て卒業します。よっぽどちゃんと卒業したかったんでしょう。…だったら最初から体育の授業出ようよ(ボソッ)

その後大学院に進学し、ジョン・フォン・ノイマンの講演を聞く機会を得ます。ノイマンは、20世紀科学史における最重要人物の一人とも評される天才で、この頃既に有名人でした。この出会いが、マッカーシーのその後の方向性について、大きく影響を与えます。名前が同じ「ジョン」だったからですかねー(絶対違う)。

卒業後もマッカーシーは、しばらくカリフォルニア工科大学に居たのですが、その後、ノイマンの研究に惹きつけられ、プリンストン大学に移ります。そこで「知能をモデル化」する研究を進めますが、このテーマでの博士号取得はならず。別のテーマで24歳頃にPh.D.(日本で言う博士号)を取得しました。当時はまだAIという言葉はありませんが、それっぽいことを研究テーマとしていた…ということですね。

ダートマス会議

その後、プリンストン大学に少し居たあと、29歳頃にダートマス大学助教授になります。そして翌年の1956年に、ダートマス会議マッカーシーの主催で開催されることになります。まだ結構若かったんですねー。

このダートマス会議。AIという言葉が初めて使われたとして知られていますが、会議自体は二ヶ月間にも及ぶもので、基本的にはブレインストーミングの場であったようです。会議というより「研究会」みたいな感じだったようですね。

さぞかし、めっちゃ参加者が居た…かと思いきや、参加者はこの分野の研究者たち10人。しかも10人が一堂に会するというより、テーマごとに参加者が入れ替わる感じの形式だったようなので、実質、数人で行われた会議ということになりますね。この数人の中に、初期のAI研究の第一人者としてマッカーシーと双璧をなす、マービン・ミンスキーも居ました。

で、そんなダートマス会議の中で初めて使われたのが、AI(Artificial Intelligence)という言葉…というわけですね。

LISP

マサチューセッツ工科大学(MIT)を経てスタンフォード大学の教授となり、32歳の頃には、LISPというプログラム言語を開発しています。高水準プログラミング言語としては、FORTRANに次いで2番目に古く、多くのアイデアを切り開いたようです。今でこそ、AIアプリケーションの開発はPythonが主流ですが、当時はAIアプリケーションのためのプログラミング言語としてもLISPが多く使われていたようです。

マッカーシーは、AIという言葉を生み出しただけでなく、それを世の中に実装するためのプログラム言語の開発もやった人だったんですねー。

タイムシェアリングシステム

さらに、34歳の頃には、タイムシェアリングシステムという考え方をMITの記念講演でスピーチし、ブームを生み出しました。まぁどうやら、ほぼ同時期に何人かの研究者たちがこの考え方を提唱していたようなので、誰が最初か?というのは正確にはよく分からないみたいですが、影響力が最も大きかったのはマッカーシーだと言われています。

このタイムシェアリングシステムの考え方は「1台のコンピュータを複数のユーザが同時に利用する」というもので、その後下火になったり、名前を変えながら再燃したりを繰り返し、今でもクラウドコンピューティングという名前でタイムシェアリングシステムの考え方は引き継がれています。

それにしても、タイムシェアって言葉、何となく今っぽいですよね。

フレーム問題

42歳の頃には、パトリック・ヘイズとともにフレーム問題を提唱しています。ディープラーニング全盛とも言える現在に至ってもいまだに解決できていないという、AI分野における難問ですね。

ちなみにこの頃、世界史的な出来事としてプラハの春というものが起こっています。社会主義体制に対する民主化運動ですね。どうやらこのあたりのムーブメントによって、マッカーシー共産主義への熱も冷めてきて、これ以降、保守的な共和党支持者に転向したようです。

45歳の頃には、計算機科学分野における「永続的な重要性を持つ主要な業績」に対して授与される賞である、チューリング賞を受賞。彼の勇名は世界に轟きました。

64歳の頃にはアメリカ国家科学賞を授与されました。日本の国民栄誉賞的なやつですかねー。とりあえず凄そうな賞です(小並感)。ちなみにこの賞、現在は休止されているみたいですね。

ちなみに、時期はよく分かりませんでしたが、マッカーシーは3度結婚しているようです。2人目の奥さんは事故で亡くしているようで、私生活の面でも色々とあったんだろうなぁ、と妄想しました。

その後

その後もマッカーシーは、73歳の頃に引退するまで、スタンフォード大学で研究に携わっていたようです。

引退の翌年には、「The Robot and the Baby」という短編小説を書いています。ロボットが感情を持てるか?という問題をコミカルに扱ったもののようです。

そして、2011年。マッカーシーはあの世へと旅立ちました、84歳でした。

ということで

いやー、ジョン・マッカーシー。調べるの割と大変でしたが、なかなか面白かったです。どんな技術も、人間が紡いできてここまである…ということを、ひとりの人間にフォーカスすることでより身近に感じることができました。

さてところで、マッカーシーが晩年に書いたという短編小説、Webで調べてみたら公開されているサイトを見つけました。

The Robot and the Baby

英語だったので、ちょっとまだ私も読めていませんが、PDFで14ページ程度なので時間のあるときに読んでみたいと思います。

みなさんも、いかがでしょう?日本語翻訳のツールを使って読めば、英語が分からなくても苦なく読めますよね。そう…今はAIを使った自然言語処理の技術が発達しているのですから!

ではまた。